吾輩はヅカオタである。

名前はまだない。

慣れないさみしさ

宝塚歌劇団は本来空っぽなのだと思う。
タカラジェンヌの彼女たちが集まるシステムの名前が“宝塚歌劇団”なのであって、そこに在籍している方々は流動的でいつだって同じではない。
からっぽだからいろんな人が来る。
でも、人が増えるばかりではすぐに溢れてしまう。
退団はお約束なのだ。

入る彼女たちも、観る私も最初から分かっている。
同じ名前であってもいつだって同じではないのが宝塚歌劇団だと分かってはいても。
分かってはいても。

 

今日も思い入れのある生徒さんの退団が発表された。

 

観ているこちら側の私はいつだって置いて行かれるのだ。
このさみしさには慣れることはできない。
大好きな人たちが去っていく世界。
花は散り際が美しいとは言うけれど(そして、違わず退団を控えた彼女たちは美しいのだけれど)、ひとつとして同じ花はない。
愛していた花がいなくなったら、何を愛せばいいのだろう。
違う花を愛でればいいのだろうか、それでも埋められない心があるのだけれど。
あなたのいない、あなたの組を観る、こちらの気持ちにもなってくれ。

こんな思いをするのであればもう観ない、と思ったこともある。
それでも劇場に行ってしまっていた。

今まで観たい公演はどうにか観てきた。
本当に観たい公演は気合いと執念でどうにか、どうにか観てきた自信はある
チケットが手に入らなかったものはそこまで情熱がなかったか、観るタイミングが今ではなかったものだと思うようにしている。
だから、過去の公演に対して観たかったなとは思わない方だと思うけれど、いまだに観たかったなと思うのは『燃ゆる風 軍師 竹中官兵衛』です。

 

今回のチケットは取っていない。
このさみしさを乗り越えられれば観に行けるのだろうか。
あの人の最後の姿を観るさみしさに耐えきれず、あの人の最後の舞台姿を観られないかもしれない、と今は思う。