吾輩はヅカオタである。

名前はまだない。

この一年と少しのこと、私と宝塚と

一年と少し前、産前休業に入りました。

休業初日に当たったら観に行こう、当たらなければそれまでと思って入力した公演が見事当たり、出産前最後の観劇に向かいました。

ラ・サンテでジュースを買い、宝塚大橋を渡り、パスタでエビピラフを食べ、大きなおなかと共に大劇場へ向かいます。

久しぶりに宝塚で過ごす平日はとてもゆったりとしていて楽しかったです。

この子が生まれることは本当に楽しみでこの上ないしあわせだけれども、こんな風に宝塚の街で過ごすことは当分ないのかしらという小さなユウウツのようなものあったのは事実です。しあわせとユウウツは両立する。

そんな杞憂もふっとばすほどタカラジェンヌの皆さんはすてきでした。頭の片隅にあったユウウツを忘れさせてくれた3時間でした。

この先、あの時やあの時やあの時みたいに無茶苦茶なオタクはできないだろうけど、できないことを少しユウウツに思うときに一緒に思い出す記憶ができたので、私はこれからも生きていけるだろうなと思いました。

 

産後の楽しみは1789でした。1789を観ることを楽しみに出産に臨んだと言っても過言ではありません。

が、しかし、私のチケットは無くなってしまいました。

公演中止、仕方ないけれど、何度あっても悲しいです。

本当に観たかったです。

 

運のいいことに花組公演『鴛鴦歌合戦』はSS席が当たりました。

着物のきれいさやタカラジェンヌのパワーに圧倒されていると、カラカラと後方から音がして振り向くと柚香さんが。

その時点でひい、ですが、まさかの斜め前で止まられて、振り向いて、歌われて、とてもいいお席でした。目の前にいる柚香光に心拍が上がりました。

とてもいい思い出です。

 

それから少し空いて、9月26日。

日付まで覚えている。

全く予想だにしていなかった和希そらさんの退団。

退団者のお知らせを見た瞬間、うわああああって泣きました。

信じられなくって、何が起こったか分からなくって。

友人から心配の連絡をもらって。

意味が分からない、というのが一番しっくりきていたなぁ。

大好きな和希さんが選んだことを応援できない自分にもショックを受けました。

友の会先行は終わっていて、チケット手元になくがらんどうのような日々。

 

そして、忘れられない9月30日、私が知ったのは10月1日でした。

宙組の生徒さんがお亡くなりになりました。劇団の報告書、ご遺族側弁護士の方の主張、お母様の訴え、どれを見ても彼女が受けたこと、彼女の心中を考えるとつらくてたまりませんでした。

 

大きい笑顔ではっきりと通る声のタカラジェンヌさん、舞台上の彼女のことを思い出します。

私より若い女の子が、つらい気持ちを抱え、その決断に至らしめられてしまった。お母様のおっしゃるように強い方だったのだろうと思います。明らかになった劇団の対応や会見での対応の悪さが残念でなりませんでした。

 

いちファンが何か出来たとも思いません。ただ100周年でファンになり96期の裁判を知っていたにも関わらず、劇団のあり方やその後について考えていなかったことを悔やんでいます。

 

この悲しい出来事の中、宝塚の街に行くことが怖かった。向かうことを想像するだけでも怖かった。なんとか取ったチケットが休演になってなくなった時、残念に思う気持ちもあったけれど、宝塚に行かなくていいと安心した気持ちの方が大きかったです。

和希さんの退団公演は中継で観ることにしました。すてきだ、と思う気持ちとどうしても忘れられない彼女のこと心が複雑でした。

 

『RRR』を観たくて、でもチケットは取れなくて、でも宝塚の街に行かなくていいことに少し安心していた時に友人が声をかけてくれました。貴重なチケットに感謝し観劇に出かけました。

久しぶりの宝塚歌劇はやっぱりすばらしく、ナートゥはそれはそれはすばらしくて。2階A席通路後ろというすばらしい席をだったのでお芝居ショー共に客席降りを満喫させてもらいました。満面の笑みで歌い踊り届けてくださる下級生のタカラジェンヌさん、名前も知らないけれど捌け際にハートを飛ばして下さりました。

とてもすばらしく、その宝塚歌劇が、タカラジェンヌがすばらしい分、私は悲しくなりました。観ている途中どうしても彼女のことを思い出さずにはいられませんでした。

私はしばらく宝塚歌劇を見ることはないと思います。最後に大好きな大劇場にさよならを言えて良かったです。

 

和希さんの東京千秋楽も中継で見送りました。あまりにもいつもと変わらない和希さんでしたね。

またいつか大好きな宝塚大劇場に行く日があるかもしれません。それがいつなのか、本当にあるのかは今の私には分かりません。

メモアプリに数年前の日付で保存されていた言葉で締めたいと思います。本当にそうだなと思いました。

もし宝塚を観ないようになったとしても、宝塚が大好きで劇場に遊びに行った日々は無駄じゃなかった。宝塚が大好きだった日々は私の人生でとても豊かな期間だったことは間違いない。